昭和40年9月11日 朝の御理解



今朝、私は、身体が左半身、自由が利かないです。とくにこちらの、左の手が、力が全然入りません。顔を洗わせて頂いても、力を入れることが出きない。不自由なことですねえ。「んんー」。拍手をうとうと思いましても、どんなに、右の手に力を入れましても、ま、そのう、拍手の、音が出ない。形は、こうやって、まっすぐする力が出来ない。こうすりゃ、まっすぐなる。自分でほんならこう、まっすぐ伸ばそうという。ことが出来ん。こっちの左の手が。というぐらいに今朝、悪いんですけれども。まあ、それから、いろいろ思うんですねえ。もう、これは、神様が一生懸命、ほんとに、なってくださっても、氏子、信心しておかげ受けてくれよと。神様が、いかにこう、頼むように言うておられてもです。この、私の右と、左の手が、合っても、良い音が出ないように、良い音が出りゃしません。神様も一生懸命なら、私共も一生懸命。「ね」。神様が、「悲願」とこう仰いますが、私共にも、やはり一つの悲願といったようなものがです、こう、あるときですね。その悲願が成就され、達成されるんだと、私は思うんですね。こう、拍手が。片一方だけが力が入っているだけでは、形のことはしておる。「ね」。お参りはしておる。御用はさせて頂いておる。それがです。「ね」。形のおかげだけ下されておるだけである。いわば、良い音色が出ていないとするならば、私共はです。「ね」、本当の、良い音色が出ていないとするならば、これは、まだまだ、神様だけが、一生懸命で、自分のほうは、一生懸命であってはないということを、悟らなければいけないのです。「ね」。
昨夜、お月次祭が終わりましてからですたい。福岡の東さんが、お届けに参りました。今朝方そのお夢を頂いてと。それで、福岡の高橋さんが、今度の御造営の記念アルバムが、できよると。大分これだけ、出来ておると。「あんたに見せるからおいで」というからその、「そうね」ち、「ほんなら見せてもらおう」ち、言うてから、記念アルバムというそれを開いてみた。ところがなんと、一番初めに、その、どういう写真が出ておったかというたら、東さん自身が、椛目の御広前で、横になって、寝ておる写真が一番始めに出ておった。もう、自分ながらびっくりして、ま、ほんなら、思うほど、なるほど、形は椛目に来ておるけれども、心は、椛目に来ておるけれども、いや、御造営は御造営と思いはあるけれども、「ね」、神様からご覧になったら、御広前で横寝をしているようなものじゃなかろうかと自分で、思いましたところである。皆さんもご承知のように、「ね」、職務柄なかなか、しげしげとお参りできません。もう、御造営のことでも、大変心を方々のものが、使こうておることも、私は、良く知っております。また、おかげも実際に頂きよります。それでもです、いわゆる、(ようろう?)になって出ていないということ。どうでしょう、お互いが、確かに記念アルバムが出来よるでしょう。その、記念アルバムを、一人一人が、ま、皆さんそれを手にされる時が、来るでしょう。「ね」。御造営が、成就したと。という時にです。「ね」。御広前までは、行っておるけれども、御広前、御神前で、なーごなって寝ておるというような、姿がです。自分の姿が、一番初めに出ておったというようなことでは、それこそ、孫子の末までです。悔いを残さなければならないようなことに、なるんじゃないでしょうかねえ。今なら、こげんばってん。あん時もこげんしとけば良かったと、こういうようなことでは、私は、おかげにならんと思う。「ね」。本当に、御造営、御造営と。夕べの御理解を頂きましてもです。「ね」。とてもその、義理とか人情とかと、義理とか人情とかといたようなものは、もう、かなぐり捨ててです。御造営に、熱中しなければならないと、言ったような御理解を頂いたが、私も、今朝からそういうような、お夢を頂いたんですねえ。それも、私も、かって、ああいう、このう、どっか、というかですね、とにかく、アメリカスタイルですね。あちらの、その、女優さんです。そらあ、もう、綺麗な女優さんです。見たこと無いです。そんな女優はおることも知らんですけれど。その女優さんが二役してるんです。姉妹、双子らしいんですね。もう、とっても仲むつまじいという、その、ところなんです。ところが、その双子の片割れである、その一人のほうに、その、好きな人が出来たんです。ですからその、いつも一緒に、まあ、遊びにでも行きよったのがです。もう、その、すらごつまで言うてから、その、好きなほうの人と行かんならんもんじゃから、その、姉妹と言うてか知らんけれども、そちらにはそう言って、その、おるところです。二人は、ずーっと、二人で一緒に遊びに行きよる、片一方は、寂しそうに、ひとりでその、どこへか行きよる。それを、こちらの陰から、見てからですね、ほんとに、すみません、すみませんと言うて、その、妹が、こちらのほうからその、お詫びをしておるというような、ま、映画の一シーンです。「ね」、姉妹が仲が悪くなったというわけではないけれども、「ね」、やはり、好きな人ができたら、それこそ、すらごとでも言うてでも、ま、その人と一緒に、デートしておるところの、いわば、場面であると。はあ、夕べの御理解から頂いてから、このくらいな気持ちが、御造営に、もって行かなきゃいけないなと、こう私は思った。御造営、御造営と、もう、それこそ、すらごつのごと言うてからでも、椛目を中心に、御広前を中心に、御造営のことを焦点にしてからの、願いで無からなきゃならない。「ね」。そこには、私は、どういうような結果が生まれてくるかというとですね。それこそ、右の手と、左の手が一緒におるときに、ずっとこう、良い音色が出るように、そいう思いもかけない、いい音色がです。自分の心の中にも、形の上にも、頂けれるのが、信心だと私は思うのです。明けても、暮れても、寝ても覚めても、御造営のことを思いよりますと。「ね」。御造営のこと思いよりますけれども、そこに、良い音色が出ていないとするならば、「ね」。御造営のこと思うただけでも、じーんと熱うなるといったような音色が出ていないとするならばです。まだまだ、思い方が足らんのであり、二つにあらわすことが、まだ、不足しているんだと悟らにゃできん。「ね」。このくらいなことではです。神様の一生懸命に対する、私共の、一生懸命というのが、欠けておる。御造営のことを思うたら、「ね」。それほど一生懸命にならして頂いたら、こら、何とはなしに、喜びが湧いてくるというところまでです、私は、思はなければいけない、行じなければいけない。最後の御祈念を終わらせて頂くときに、関西の歌舞伎役者の中に、片岡仁左衛門という人がおりますねえ。息子に片岡孝雄というのが、たかというじは孝行の孝という字が書いてある。この親子を頂くんですね。片岡仁左衛門、片岡孝雄と、私は、片岡ということは、片一方の丘と書いてあるから、あの、岡ですから、修行のことだと考えられますね。「ね」。仁左衛門の仁というのは、にんべんに二が書いたありますけれども、仁という字が書いてありますけれども、私は、二つと、こう思うとります。二心(ふたごころ)。いうなら、迷うておるということだと思うのです。「ね」。これではです。片岡、私は、孝雄だと。「ね」。神様に喜んで頂くような、神様に喜んで頂くようなとこう、思うておるけれども、それでは、本当の孝行にはならんと。本当に、神様に喜んで頂くようなおかげを頂くためには、片岡ではいけない。「ね」。やはり、たろうた一つの修行というのが、私は、必要だと思うのです。「ね」、御造営のことを、一生懸命思いよる。寝ても覚めても思いよる。にもかかわらずです、「ね」、喜びも湧かなければ、感激もないならです、それは、まだ、思うてるだけであって、形の上においては、修行の上においては、まあだ、不足しておるんだということを、悟らねばいけんですね。そのために、もうひと修行させてもらわなきゃいけんということ。その、片岡仁左衛門、親子の、おー、お知らせ頂いてから、私は、そんなに思う。お互い、折角おかげを頂かせてもらうなら、東さんの、お夢じゃないけれども、記念アルバムが出来よる、その場へ行っているところをです、椛目にお引き寄せを頂いておるんだけれど、椛目に思いが来ておるんだけれど、御造営、御造営と、思うておるのが実際はこう、おかげも頂いておるのだけれどもです。「ね」、それの、椛目の御広前で、長々と寝ているようなものであるということ。「ね」。どうでしょうか皆さん。あー、本当に、アルバムができた時の、第一ページに、寝ている人がおるんじゃなかろうかと私は思う。それは、どんなに神様がおかげを受けてくれよと仰っても、今日の、私の身体のように、右の手と左の手がです、どんなに左の手のほうが、元気があっても、右の手がどんなに元気があっても、左の手が、こうして力が入らなかったら、拍手の音一つが、出ないんだということ。もう、音が出るところまで、おかげを頂く。「ね」。音が出るところまで、一生懸命なろうと。「ね」。私は、ここのところを一つ焦点において、私も、大抵、いい加減において、御造営のことは、心にかけておる、思うてもおるけれども、まあだ、良い音は出ていないとするならば、心の上にも喜びを思うて、思うただけでも、心が充実するくらいのところまで、ひとつ、切実に思わせて頂こうと。「ね」。拍手も、切実な思いをです、本当に形に表していこうと。表していきよるけれど、まだ、良い音の出らんなら、片一方はまだ、力が、無力状態だということ。もちっと力をいれにゃできん。良い音が出るところまで、私は、進めていかなければいけんのじゃないだろうかと。ためにはです、あれやら、これやら「ね」。人情にでも思いよった分じゃ、おかげは頂かれません。人情ででもしよった分じゃです、ちょこっとばっかりの、御用でも頂いたら、もう、それでよかっじゃろうと思う。「ね」。それでは、私は、本当のいわゆる徳にも、喜びにも、ならないと私は思うのです。「ね」。私が、御造営始まってこの方、朝晩、もう、今日ども一つ、御造営のことは、もう、言わんでも済むようなおかげを頂きたいと。それば、おかげのごと思うとるけれども、神様の下さる言葉が、御造営のことばかり、はあ、今日の御理解は、違う御理解でなかろうかと、思うていても、最後じゃ必ず、御造営に結び付けてある。皆さんが、なにをなさっても、御造営でもすると言うとらなかったら、誰も、今の椛目の信心は。「ね」。ドラは、泣いても泣かんでも、「ね」、御造営と結びついとらなければいけんのです。そしてです、御造営とおもわせて頂いたら、一切をこうして表させて頂いたら、それに、打てば響くようにです。と、こう拍手の音が、右と左の同じ力をもってすれば、その音が出るように、私の、心の中に、「ね」。神様が、悲願とまでも、言うてござるその、悲願がです。その願いがです。二つが、神様の願いと、私共の願いとが、一つになるときに、良い音色が出ない筈がない。だから、私共は、まあだこれは、信心が足りんのだ、まあだ、修行が足りんのだと。これは、まだ片岡なのだと。「ね」。まあだ、自分の心の中に、人情があるんだと。「ね」。いわゆる、御造営の思いがまだ、欠けているんだと。好きな人でも出来た時にはです、誰彼を、それこそ欺いてでも、一つのデートを楽しませて頂くような、一生懸命の思いというものがです、「ね」、だからまだ、欠けておるんだと、一つ悟らせてもろうて、「ね」。喜びの湧くところまで思わせてもらおうと。(かいりきが?)「ね」、響くまで、返ってくるところまで、行の上に表せて頂こうと、そこまでを、行の焦点として、信心をいよいよ進めさせて頂こうと。御造営を通して、そうした、神様の願いに答えさせてもらうときに、神様もまた、私共の願いに、答えてくださるような、基礎というか、土台を作らせて頂こうという、おかげを頂きたいと、こう思うのです。私も一つ、どうでもその思いを、もっともっと、思いが募ってくるというところまでです、思わせて頂く。修行の上にも、それを表せて頂こうというふうに、今朝から、改めて思わせて頂いたんですが、皆さん、どうでしょうか。御造営のことを思うただけでも、何か心にじーっと来ると。「ね」。言うところまで。それは、そうですよ、神様の願いのことを、一生懸命神様の思うてられることを、こちらも一生懸命思うのですから。ここに、交流が始まらない筈がないです。右と左が一緒に、その思いが鳴るときです。それこそ、パチッというような、いわば、拍手の音が出るようにです、その、音が出るところまで、おたがいの、信心を進めていくこと。誰彼じゃありません。人のものじゃいけません。あの人が、このくらいじゃけん、私もこのくらいでと、言った様な事じゃありません。その、音色が出るところまで、一つ、この際、私は、高めさせて頂こうと思うのですね。どうぞ、おかげを頂いてください。